ならば…頭を柔らかくし言葉を喋れるようにすればよい。
それに至る前に状況を整理。

Q:何故頭が固いのか?

A:普段から「考える」事をしていないからだ


Q:何故考える事をしていないのか?

A:仕事は慣れた事ばかりしている。体が記憶している。
  遊びも同じ領域に。


Q:遊びは置いとくとして、何故慣れた仕事でミスが発生するのか?

A:体が記憶しているという事は思考せず行動している事だ。
  目前をしっかり見ずに「それらしい」動きになっている事が問題だ。
  例えばプロンプトでコマンドを打つ際ありがちなのが、コマンド記述ミス。
  「キーボードで文字を入力する」という行動が脳に行く前に完了している。
  もちろんエンターを切る所まで体が覚えているのもあるだろう。
  そして――「確認する」というプロセスさえ脳に到達してないレベルだ。
  目前の文字が読めていない。


Q:何故目の前の文字を読んでいないのか?

A:読むという行為は頭の中に入ってきた文字という図を解釈する行為だ。
  頭の中に文字が入ってこないから読めていない。


Q:何故文字が読めていないのか?

A:眼で見るだけでは頭にインプットされないからだ。
  仕事に慣れきった私は「見た」内容さえ頭に到達していない。


Q:何故頭にインプットされないのか?

A:頭の中に焼き付ける行為をしてないからだ。


Q:頭の中に焼き付ける行為とは何か?

A:朗読や文字を書く行為だ。
  これらは一度頭の中にインプットしてそれを解釈してアウトプットする。
  行為そのものに時間が掛かるため焼き付ける効果は高い。


Q:私よ、御疲れ様です。無い頭で良くがんばった!感動した!

A:それほどでもない;


Q:ところで同じ内容、意味の設問があるのだが?

A:文字数が違えば意味も違うという名言をしらないのかよ!



とかなぜなぜ?行為を自前でやってみた。
頭の体操には良いね。
これに至るまでのプロセスは、「はてなブックマークを読む」→「注目の記事を眺める」→
「↓の記事を見つける」→「朗読する」→「途中で怪盗ロワイヤルする」→「パンヤ交渉する」→
「失敗したので朗読再開」→「眼が痛くなったので拡大する(Firefox)」→
「文字が大きくなると逆に読み間違いが増える事に気付いた」→
「それでも乗り越えるべきじゃね?と頭が言ったので頑張って読んだ」→
「おいィ?これBlogになにか成果書くべきでしょう?と頭に言われた」→
「Blog書くよ!とりあえず疑問スパイラルで攻めてみた」→
「頭疲れた」→「怪盗ロワイヤルで剥製強奪するおwww」→「ふう・・・バトルうめぇww」→「執筆再開」今個々

人は「考え方」を手に入れると頭のよくなる生き物である(teruyastarはかく語りき)
http://d.hatena.ne.jp/teruyastar/20100427/1272405426


最近書いた自分に関するBlog記事では一番面白かった。つか9割9部喋って読む(朗読)とかマジ頭の体操にいいわ。
朗読も、頭に刺激が入る+喉に刺激が入る→頭が柔らかくなり、言葉が喋れるようになる・・・
ようになれる気がするし良い行為・・・だよね?よね?(´・ω・`)

最近やってるTwitterは「脊髄反応」的に文字を書き落とすので、熟考がどうしても足りなくなる。
140文字までしか書けないしね。
全員が全部そうではないだろうけど、全体的名思考回数やパターンめぐらせが減るのは体感上間違いなく存在する。
これは数値で統計出すのは難しい…だろうけど頭が感じている感覚として間違ってない。
いつもの自分納得ですねわかります。

・・・んー記事を書く時に常々思うのだが、読んだ記事(↑のはてなダイアリー)の内容には触らずいきなり自分語り始める所は疑問だな。
「人は「考え方」を手に入れると頭のよくなる生き物である」という記事(日記)を見たが内容は殆ど覚えてない。
感じ取った事に対して自分なりの何かを書き出すのは、自分という色的には間違いない。
だがしかしそれだけでは情報吸収という点で不足しているように思える。

理想:読む→感想→自分の感じ取った事→自分はこうしたい(自分語り)
現実:読む→自分はこうしたい(自分語り)

自分語りは相手へ感想を投げた後に投げ込まないと、結局は情報や体験を吸収しきれずに中途半端な形でしか残らない気がする。
揮発的な記憶よりは不揮発な記憶で有りたい。
それにはまずモノにしたい記事そのものを解体・解読・解説していける自分性能を意識して磨いて行く必要があるだろう。

えんいー